性高院の歴史
 由来、開基松平忠吉(性高院殿憲塋玄白大居士)は徳川二代将軍秀忠(第三子)と年子の同母弟で、天正17年(1589年)その母、宝台院(三河西郷出身、同年5月19日寂)の菩提追弔のため、武蔵国埼玉郡忍庄に一宇を建花と結婚した。東海路の総大将として姑井伊直政及び本多忠勝を軍監に攻め登った関ヶ原の戦の立「大雄山正覚寺」と号した、
 忠吉は一才の時、東條(吉良町)松平家忠の嗣となった。文禄元年忍城主となり、従五位下下野守に任ぜられた。7月井伊直政の女、功により、慶長5年10月清州五十七万石城主となった。同月家康の名代として、京都伏見にて忠吉名の掟書を発給している。
当寺も同8年清州外町に移転した。
 同12年3月5日忠吉は参勤の途江戸にて病死、増上寺に葬られ、翌13年2月10日将軍秀忠は当寺に制札を賜った。同15年清洲城遷府に伴い、大雄山正覚寺は中区大須門前町に移り、改葬により寺号を「性高院」と改めた。当寺に殉死者石川主馬介(吉信)、稲垣将監(忠政)、中川清九郎(佐々記内)、小笠原監物(忠重)の墓もある。忠吉には子が無く、家康の第九子義直が後継となり、初代名古屋城主となった。以後当寺は同家一族の菩提所となって十数基の位牌が納められるとともに寛政7年(1795年)11月25日性高院殿廟宇が建立され、同8年2月29日影像と位牌が遷座された。
 寛永13年(1636)より朝鮮から使節が度々来朝し、当寺は正使の休泊所となった。昭和18年軍用道路計画で現在地に移転したが、同20年戦災により堂宇を焼失した。誠に残念がら数点の寺宝しか残らなかった。平成6年本尊阿弥陀三尊佛を国立京都博物館内美術院にて完璧に修復した。同11年7月忠吉公所用懸盤、尾張徳川家二代光友公側室松寿院様(1705年寂)所用狭箱等十数点を修理(室瀬和美氏)した。同年境内地が名古屋高速道路に抵触するを機にビル8階に本堂を再建した。同18年(2006年)3月5日開祖忌四百回忌法要を重臣の子孫30家余全国より参列のもと厳修した。